のんたん日記 １
２４．かーたんと呼んで
２４．４ 桜の花の降る中で （2000年4月17日）
桜の花の降る中で
のんたんがおかあさんのことを「ア・ノンタン」と呼び続けても、それをにこにこと受けとめていたおかあさんが、初めて、「これでいいのかな」と思ったことがありました。
そのきっかけは、のんたんがひつじ組で担任になっていただいたｋ先生のことを、「くろかわちぇんちぇっ」と名前で呼べるようになったことでした。のんたんは、「ｋ先生＝くろかわちぇんちぇっ」とはっきり認識していたわけではなかったかもしれません。
保育園でひとりで遊んでいて、急にさびしくなるのか、「だれか来て。」と人を求めたくなったときなど、のんたんは、「くろかわちぇんちぇっ！ くろかわちぇんちぇっ！」と連発しながら、園内を歩きまわるようになっていました。そんなとき、ｋ先生がすぐに来てくれればいいのですが、いつもそうとはかぎりません。たまたま近くにいた他の先生がのんたんのところに行くと、のんたんはその先生に抱きつき、それで満足してしまうこともあったそうです。
それでもおかあさんが感心したのは、日常のふれあいの中で、ｋ先生がのんたんに自分の名前をおしえる努力を続けた、ということでした。それは、おかあさんがこれまでやろうとしてこなかったことでした。
のんたんに「おかあさん」と言わせる努力を、どうしておかあさんはしなかったのでしょうか。どうやらおかあさんは、「のんたんが『ア・ノンタン』という意味のあることばをしゃべった。」という事実に、満足してしまったようなのです。それに、あせってのんたんにおしえこもうとして、自分ものんたんも追いつめるような生活はしたくない、とおかあさんは思っていました。そのころのおかあさんにとって、のんたんがおかあさんのことを、「ア・ノンタン」と言おうが「おかあさん」と言おうが、おかあさんにはどちらでもいいことでした。おかあさんにとってたいせつなのは、「のんたんがおかあさんのことを特別な人だとはっきり認識している。」ということを、おかあさんが知ることができた、ということでした。
ところが、おかあさんがそうやってのんきにかまえている間に、のんたんは他の人の名前が言えるようになってしまいました。
「なんだ、のんたん。そんなことができるのね。それならば…。」
というわけで、おかあさんも、ｋ先生を見習うことにしました。「かーたんと呼んで」作戦、開始です。
それからのおかあさんは、のんたんを抱っこしているときなどに、のんたんの手をとり、自分の頬にあてて、「かーたん、だよ。」と言ってみるようにしました。そうは言っても、言うのは一日２〜３回です。あせることはない、とおかあさんは思っていました。
毎日、のんたんの手でおかあさんをさわらせ、
「かーたん。」
と、おかあさんはゆっくりと話しかけます。
のんたんにはたしかに聞こえているはずなのですが、のんたんの返事はありません。
そこでもう一度、
「これは、かーたん、なんだよ。のんたん…。」
そんなときおかあさんは、のんたんとおかあさんとのあいだの、ゆったりとした時間のながれを感じていました。のんたんにこんなことをおしえられるようになったんだね、とおかあさんはうれしくなり、のんたんの顔をじっと見つめました。
それから4ヶ月がすぎました。冬も終わり、いよいよ春の到来です。それでものんたんは、おかあさんの「かーたんだよ」が聞こえてないかのように、あいかわらず「ア・ノンタン」と呼び続けていました。
昨年のｒ保育園の入園式は、満開の桜の花に祝福されて迎えることができたというのに、今年の春はなかなか訪れる気配がなく、入園式を過ぎてもまだやっと枝のつぼみがふくらみかけたようなようすでした。
そんな桜の花が、「お待たせしました」とばかりに、いっせいに咲きほこったとき、のんたんの心のとびらも、ぱっと開いたのかもしれません。おかあさんが待ちわびたことばは、あまりにも唐突に、のんたんの口からこぼれました。
「かー・かん…。」
やった、とおかあさんは胸が震えました。
「のんたん！ そうよ。これは、かーたん。かーたんなのよ！」
おかあさんは、のんたんの手をとって、自分の頬にあてました。
「かー・かん！」
「はあい。」
「かー・かん！」
「はあい。」
「かーかん！」
「はい！」
のんたんは、何度も呼びつづけました。おかあさんも、返事をしつづけました。のんたんの「かーかん」を聞き逃すのが惜しくて、その全部に返事をしなくては気がすまないような気持ちでした。
自分が呼んだら返事が返ってくる…。これもまた、のんたんには新鮮だったのでしょう。おかあさんに返事をしてもらうのがうれしくてたまらない、という顔をしています。
「かーかん、かーかん、かーかん。」
そう繰り返しながら、のんたんはおかあさんの首に抱きつきました。
「はあい、はあい、はあい。」
おかあさんも、同じ数だけ返事を返しながら、のんたんをぎゅっと抱きしめました。
おかあさんにも、のんたんにも、桜の花びらがはらはらとふりかかってきます。その淡いピンクの花びらが、「おまたせしました…」と恥ずかしそうにささやく声が、今にも聞こえてきそうでした。
（次回につづく）
２４．４ 桜の花の降る中で （2000年4月17日）
桜の花の降る中で
のんたんがおかあさんのことを「ア・ノンタン」と呼び続けても、それをにこにこと受けとめていたおかあさんが、初めて、「これでいいのかな」と思ったことがありました。
そのきっかけは、のんたんがひつじ組で担任になっていただいたｋ先生のことを、「くろかわちぇんちぇっ」と名前で呼べるようになったことでした。のんたんは、「ｋ先生＝くろかわちぇんちぇっ」とはっきり認識していたわけではなかったかもしれません。
保育園でひとりで遊んでいて、急にさびしくなるのか、「だれか来て。」と人を求めたくなったときなど、のんたんは、「くろかわちぇんちぇっ！ くろかわちぇんちぇっ！」と連発しながら、園内を歩きまわるようになっていました。そんなとき、ｋ先生がすぐに来てくれればいいのですが、いつもそうとはかぎりません。たまたま近くにいた他の先生がのんたんのところに行くと、のんたんはその先生に抱きつき、それで満足してしまうこともあったそうです。
それでもおかあさんが感心したのは、日常のふれあいの中で、ｋ先生がのんたんに自分の名前をおしえる努力を続けた、ということでした。それは、おかあさんがこれまでやろうとしてこなかったことでした。
のんたんに「おかあさん」と言わせる努力を、どうしておかあさんはしなかったのでしょうか。どうやらおかあさんは、「のんたんが『ア・ノンタン』という意味のあることばをしゃべった。」という事実に、満足してしまったようなのです。それに、あせってのんたんにおしえこもうとして、自分ものんたんも追いつめるような生活はしたくない、とおかあさんは思っていました。そのころのおかあさんにとって、のんたんがおかあさんのことを、「ア・ノンタン」と言おうが「おかあさん」と言おうが、おかあさんにはどちらでもいいことでした。おかあさんにとってたいせつなのは、「のんたんがおかあさんのことを特別な人だとはっきり認識している。」ということを、おかあさんが知ることができた、ということでした。
ところが、おかあさんがそうやってのんきにかまえている間に、のんたんは他の人の名前が言えるようになってしまいました。
「なんだ、のんたん。そんなことができるのね。それならば…。」
というわけで、おかあさんも、ｋ先生を見習うことにしました。「かーたんと呼んで」作戦、開始です。
それからのおかあさんは、のんたんを抱っこしているときなどに、のんたんの手をとり、自分の頬にあてて、「かーたん、だよ。」と言ってみるようにしました。そうは言っても、言うのは一日２〜３回です。あせることはない、とおかあさんは思っていました。
毎日、のんたんの手でおかあさんをさわらせ、
「かーたん。」
と、おかあさんはゆっくりと話しかけます。
のんたんにはたしかに聞こえているはずなのですが、のんたんの返事はありません。
そこでもう一度、
「これは、かーたん、なんだよ。のんたん…。」
そんなときおかあさんは、のんたんとおかあさんとのあいだの、ゆったりとした時間のながれを感じていました。のんたんにこんなことをおしえられるようになったんだね、とおかあさんはうれしくなり、のんたんの顔をじっと見つめました。
それから4ヶ月がすぎました。冬も終わり、いよいよ春の到来です。それでものんたんは、おかあさんの「かーたんだよ」が聞こえてないかのように、あいかわらず「ア・ノンタン」と呼び続けていました。
昨年のｒ保育園の入園式は、満開の桜の花に祝福されて迎えることができたというのに、今年の春はなかなか訪れる気配がなく、入園式を過ぎてもまだやっと枝のつぼみがふくらみかけたようなようすでした。
そんな桜の花が、「お待たせしました」とばかりに、いっせいに咲きほこったとき、のんたんの心のとびらも、ぱっと開いたのかもしれません。おかあさんが待ちわびたことばは、あまりにも唐突に、のんたんの口からこぼれました。
「かー・かん…。」
やった、とおかあさんは胸が震えました。
「のんたん！ そうよ。これは、かーたん。かーたんなのよ！」
おかあさんは、のんたんの手をとって、自分の頬にあてました。
「かー・かん！」
「はあい。」
「かー・かん！」
「はあい。」
「かーかん！」
「はい！」
のんたんは、何度も呼びつづけました。おかあさんも、返事をしつづけました。のんたんの「かーかん」を聞き逃すのが惜しくて、その全部に返事をしなくては気がすまないような気持ちでした。
自分が呼んだら返事が返ってくる…。これもまた、のんたんには新鮮だったのでしょう。おかあさんに返事をしてもらうのがうれしくてたまらない、という顔をしています。
「かーかん、かーかん、かーかん。」
そう繰り返しながら、のんたんはおかあさんの首に抱きつきました。
「はあい、はあい、はあい。」
おかあさんも、同じ数だけ返事を返しながら、のんたんをぎゅっと抱きしめました。
おかあさんにも、のんたんにも、桜の花びらがはらはらとふりかかってきます。その淡いピンクの花びらが、「おまたせしました…」と恥ずかしそうにささやく声が、今にも聞こえてきそうでした。
（次回につづく）